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第3号配信「12年前の1月29日、政治改革法案が成立しました」(2006.1.27)
今から12年前の1月29日、細川護熙首相と河野洋平自民党総裁のトップ会談で政治改革関連法案は成立しました。深夜未明、雪が降りしきる中、会談を終えた2人が揃って会見に臨み、ペンを交換して合意書に署名する姿は全国に生中継されました。それは会期末最終日というギリギリの局面での劇的な出来事でした。

その当時、21世紀臨調は民間政治臨調と呼ばれていました。民間政治臨調は海部内閣における政治改革法案廃案を受けて民間の手で政治改革運動を推進するために発足し、政治の現状に危機感を抱く与野党若手議員との二人三脚で小選挙区制の導入や政治資金制度の改革を進めていました。

海部内閣退陣後、政治改革法案の処理をめぐって宮沢内閣の不信任が可決され、自民党は分裂、総選挙の結果、93年に細川連立内閣が成立します。細川内閣は政治改革関連法案の成立を内閣の最優先課題に掲げてスタートしますが、寄り合い所帯の足並みは常に乱れ、国会には最強野党・自民党が立ちはだかり、法案審議は難航を極めます。

11月、衆議院本会議でかろうじて可決され、参議院に送付された後もなかなか法案審議に入れず、年内の成立を公約していた細川首相は記者会見で国民に謝罪します。そして、年が明けた94年の1月21日の金曜日、内閣の命運を賭けた政治改革法案は参議院本会議の採決に付されますが、与党側から造反議員が続出し、法案は否決されてしまいます。

細川護煕首相と河野洋平自民党総裁を招いて行われた
「政治改革の実現を求める国民集会」
(ホテル・ニューオータニ 93年11月8日)

否決された夜、民間政治臨調は東京九段会館で政治改革の実現を求める国民集会を開催しました。2千名の聴衆が集まる中、細川首相をはじめ与野党議員80名が壇上に上がり、会期末ぎりぎりまで努力することを誓いあいました。この時、社会党議員の左近正男さんが、足を踏み鳴らして同党の造反を詫びる姿は、「左近正男の男泣き」と評判になりました。

参議院で法案が否決された翌日の虚脱感は今でも忘れることができません。このままでは廃案です。参議院で否決された法案を会期内に成立させるためには、衆議院に回付し3分の2以上の多数を得て再議決するか、衆参両院協議会を開催し合意を得るかしかありません。しかし、協議会での合意は初めから絶望視されていました。

政局は会期末まで残すところ1週間というぎりぎりの局面で極限まで緊迫していきます。与党代表者会議では法案を衆議院で再び採決にかけ、自民党の改革推進派の協力を得て再議決に必要な3分の2の多数を確保するという中央突破案が検討され、また一部では、解散総選挙を求める声も囁かれ始めます。自民党内では、改革推進派と改革慎重派の対立は日を追って激しさを増し、ともに署名活動を行うなど再分裂の様相を呈します。

衆議院で再議決された場合、政府案に賛成する自民党の造反議員は70名に達するのではないかとの噂が流れます。連立与党と自民党執行部が合意できない場合は、後藤田正晴さんら自民党政治改革推進議員連盟が執行部を飛び越して直接交渉を行うのではないか、解散となった場合、多くの推進派議員が離党し、自民党は分裂選挙に陥るのではないかとの憶測も飛び交います。

27日、民間政治臨調はこうした状況を踏まえ、法案の成立に向けた最後の緊急集会を開催します。「政治改革の実現を誓いあう集い」と銘打たれたこの集会には、細川首相をはじめ与野党議員170名が参加。急ごしらえの狭い会場に閣僚や与野党議員が座りもせず、ひしめき合いながら立ち並ぶ異様な雰囲気と熱気の中で始まった集会は、文字通り、与野党議員による最後の決意表明の場となりました。

細川首相をはじめ与野党議員170名が最後の決意表明を
行った「政治改革の実現を誓いあつどい」
(ホテル・ニューオータニ 94年1月27日 写真提供・毎日新聞社)

挨拶にたった細川首相は、「政治改革の実現なしにはこれ以上の景気対策も行財政改革も不可能」「実現できなければ、首相の地位にいささかもこだわるものではない」と発言し、河野総裁にトップ会談による決着を呼びかけます。そして国民に対しては、「国会議員に電話やファックスでみなさんの声をぶつけていただきたい」と異例のアピールを行います。

28日夜、細川首相と河野総裁は、土井衆議院議長の斡旋を受け入れる形でトップ会談を実現。会談した細川首相、河野総裁は小選挙区300、比例200、比例代表の単位はブロック制とするなどの細目において修正内容に合意し、その足で衆議院議長公邸に土井衆議院議長、原参議院議長を訪ねて合意内容を報告します。

政治改革法案成立合意の共同記者会見を行い、握手を交わす細川首相と河野自民党総裁
(94年1月29日未明 写真提供・共同通信社)

日付が変わった29日の深夜未明、細川首相と河野総裁は首相官邸で共同記者会見を行い、ペンを交換し合意書に署名。ここに、選挙制度改革を柱とする一連の政治改革法案は5年余の歳月と竹下、宇野、海部、宮澤、細川の5代の内閣を経て、会期末最終日に劇的な幕切れで成立に至るのです。

当時、民間政治臨調の主査をつとめていた佐々木毅先生は、この政治改革法案の成立を受けて、2月16日付けの朝日新聞「論壇」に次のようなコメントを発表しています。

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政治改革法の成立は戦後の政治史における一つの革命的な出来事である。結論は満点には程遠いが、よろけながらも政治が自力でここまで進んできたことは過少評価してはならない。世の中には当然だとの声もあるが、どうして実現したのか、本当はもっと吟味すべきである。それを特定党派の損得勘定などでしか論じないとすれば、この国の言論の貧困さと俗悪ぶりは救い難いし、それはひいては政治を救い難いものにするといってよい。

現実を美化するつもりはないが、政治家や政党が自らを賭けて取り組んだこのドラマをどう理解するかは、今後の政治の行方にとって非常に重要な意味を持つ。何よりも、政党や政治家たちがそれぞれにこの問題を悪戦苦闘した現実をもっと直視すべきである。55年体制の政治的基盤を決定的に変えようというわけであるから、自民党、社会党が苦しんだのは当然であった。抜本的に制度を変えるためには政治家を変えなければならないが、制度を変えなければ政治家は変わらないというジレンマがあったからである。

このジレンマが乗り越えられたのは政治家たちがある程度の自己変革を遂げたからにほかならない。同じ政党の中での政治改革論議は、「政治家とは何か」という原理原則論にぶつかり、政策論では逃げられない政治家たちの正面衝突があちこちで現出されたのであった。 国民も政治改革が必要と言いながらも、昨年までは「実現できない」と考える人が多数であった。政治家が打算の権化であり、自分の利害にかかわることは一歩も譲歩しない人々であるという見方からの当然の結果であった。

しかし、政治家たちの行動様式が大きく変化し始めると実現するかもしれないという気持ちになった。この政治家や政党、国民の間の共鳴関係こそ、決定的な効果を持ったといえよう。新しい仕組みを作って自らの変革を成就していくという、自己改革能力が発揮された一つの事例として見るべきである。従って、将来に向けて更なる改革を実行することができるし、政治への信頼の手がかりとなる資産を手にしたといってよい。(以下、省略)

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しかし、その後、日本政治は試行錯誤を繰り返し、長い暗中模索の時期が続きます。過渡期特有の現象とは言え、政党は離合集散を繰り返し、国民の政党不信が高まります。また、政治家は長い歳月を費やした政治改革という資産を使いこなすための道筋も描き切れないまま、改革はすでに終わったかのような言動を繰り返し始めます。

政治改革は様々な分野の構造改革の担い手として政党を立ち直らせ、政治の指導力を確立するための取り組みでしたが、経済社会の行き詰まりがいよいよ深刻化する中で、政党それ自体が構造改革の行方を阻む最大の障害物であるかのような印象を与えます。

さながら日本政治は、手に余る解決困難な課題に直面しながら、その課題と取り組むべき主体を同時に作り上げねばならないといった解きがたい宿題に翻弄されているかのようであり、出口の見えない閉塞感が何年も国民を覆うのです。

政治改革法が成立して12年。小選挙区制度がその威力を発揮し、政党が首相候補、政権公約(マニフェスト)、政権枠組みを提示して、国民に「政権の選択」を迫るという新しい時代を迎えるためには、2003年と昨年の総選挙まで待たなくてはならなかったのです。

                               (前田 和敬)



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